8月29日に奈良で救急搬送中の妊婦さんが死産された事件がありました。
搬送先を探す際、電話で12件断られたこと、途中で交通事故があったこと、奈良で昨年8月にも、分娩中に意識不明となった妊婦さんがが、19カ所の病院に転院を断られ、死亡している事件(大淀事件)もあり、ニュースとして「おいしい」のか、報道を見ていると医師、病院たたきが一斉におこっている感じがあります。
以下のサイトを手がかりに色々とたどっていくとどういう事がおきたのかというのは理解できると思います。
奈良死産“たらいまわしてないぞ!”事件
http://obgy.typepad.jp/blog/2007/08/post_e555.html
奈良死産“電話で12病院断られた”事件報道の問題点!
http://obgy.typepad.jp/blog/2007/09/12_91e1.html
大淀事件については同じサイトの以下の部分からたどると理解の参考になります。
産科医療のこれから 大淀事件
http://obgy.typepad.jp/blog/cat769245/index.html
で、今回自分がしみじみ思ったのが、
「たらいまわし」という言葉についてです。
正直、 産科医不足、とか産科、小児科をはじめとする医療崩壊とかついこの間まで意識したことはありませんでした。自分の妊娠をきっかけにこのところ初めて知るようになったというのが本当です。
で、去年の大淀事件についてはニュースを聞いた時点での事は覚えています。
「病院が手一杯」で受け入れる事が出来なくて「たらいまわし」になってしまうのは怖いね。と思ったり、周りの友人や家族と話していました。
「たらいまわし」‥手元の広辞苑をひいてみると「一つの物事を次々と送りまわすこと。」とあります。
「まわすこと」なんだから、「まわした誰か」か「まわしたもの」があるということでしょう。報道をみていると「医者」や「病院が」「たらいまわした。」と言いたいのでしょう。
でも、去年の自分は「病院や医師が受け入れなれない」という理解はあるのにやっぱり「たらいまわしされる」と深く考えずに報道をミスリードを鵜呑みにしています。
日本語も知らないのかと言われても仕方のない馬鹿っぷりと言われても仕方ないですが、それ以上に自分に関係ないとばかりに深く考えずに「怖いなぁ」という漠然とした「医療への不信」を深めていたわけです。
言葉には意味以上になんというか「色」がついているものがあります。「たらいまわし」「拒否」「‥せず」等、あまりいいイメージはありません。実際に断ったり、‥をしなかったんだから事実じゃないかという解釈もあるかもしれないけど、「断るしかなかった。」「受け入れることができなかった。」「‥できなかった。」という事情が存在するものは見えずというかあたかもなかった様に見えます。
今回や去年の「たらいまわし」については現場の医療関係者や救急搬送に携わった方々が「まわしている」訳ではないので不適切な表現だと思います。
そして、去年、さんざん「たらいまわし」の表現が不適切であるという情報は報道機関にも届いているはずなのであえて今回使っているのは報道が「医師、病院たたき」をしたい為の選択といわれても仕方ないと思います。
そして、それを鵜呑みにしてしまう、自分を含めた報道の受信側も情けないのかもしれません。(しかも、見るほうが歓迎するからこういう記事がなくならないという理由もあるんだと思います。)
今日も時事通信社のニュースで「市立病院が急患診察せず、男性死亡=来院時に119番勧める-神奈川・厚木」という見出しを見ました。
内容を読むと「心肺停止状態の別の急患がいたので、対応できなかったため、亡くなったかたの診察ができなかった。」そうです。いや、「診察せず」ってのは事実かもしれないけど、見出しだけ読むと、医師や病院側の怠慢のように読めます。
去年の自分だったらなんて思ったのかと考えるとぞっとします。
なんにしても受身でいるだけでなく、自分で考えることが必要なんだなぁと思います。
調べていくと私たち日本に住み医療を受ける立場の国民の無知、マスコミの異常な医療パッシング、国の政治家などの無茶な医療削減をはじめとする政策のせいで、医療(や介護)は崩壊しかかっているんですね。
今回の奈良の事件は去年の奈良の大淀事件でのマスコミの異常なパッシングで奈良の産科医療の崩壊に拍車がかかってしまった事もひとつの原因。
医療や介護の崩壊は自分自身に降りかかってくる問題ですね。まずは知ること、そして自分も無関係でないという事を自覚することから始めないといけないんだなと思う今日この頃なのです。
内田樹のブログで「教育の崩壊」について語られていたと記憶していますが、医療の崩壊も根っこのところでは、同じ流れにのっているものだと思います。産科や小児科医の問題だけでなくて、身の回りのいたるところで、同じような「崩壊」が起きている気がします。
医療生協の活動などを通して、こうした産科医の現実は知識としては知っていましたが、「お産」には縁の無い身としては、自分自身への響き方に差があるのは否定できません。しかし、医療や介護というものは生きるものすべてにかかわってきます。自分も無関係ではない、というより、自分が自分こそが当事者なんだ、と思います。
老親の介護を終えたり、あるいはすでに親はいないというような人が、「介護のことは関係ないから」と気楽に言うのを耳にすることが多いです。関係ないわけないのに、ですよね。
投稿情報: FALCON | 2007/09/14 23:23
「私は悪くない」「私は関係ない」といっていると正直、何にも変わらないんですよね。(いや、変わるかも知れないけど、あまりに効率が悪いんですよね。)
まず自分が変わること、自分を変えることは難しいけど自分で出来る事だから、やりやすい。
そういうところから突破口を見いたしたいものです。
投稿情報: はじめ3号 | 2007/09/15 00:03